花鳥諷詠を土台とし品格のある俳句を更に

 俳句の作りの1つの指針として、虚子先生が「花鳥諷詠」を唱えられたのは、昭和3年4月21日のことである。以来多くの俳人たちは、この大きな旗印を目指して鋭意努力、また俳人たちへの指導の理念として掲げられて来た。 

 

 しかし、この「花鳥諷詠」の道は俳句を学ぶ大道ではあるが、その脇道というのは無数にあるのである。それが「現代俳句」や「無季俳句」と呼ばれる存在」なのである。また「客観写生派」に対して「文芸上の真」を唱える作句、さらには「人間探求派」などと多種多様の目標を掲げて、俳句作りの道を進め、広げていったのである。 

 

 けれども子規が唱えた写生から俳句入門、またそれを発展させた虚子の「客観写生」などが多くの俳人の作句の手引きとして、戦後の俳句人の大きな流れとしての「俳句ブーム」への基礎造りとなったのも事実である。 

 

 私たちの「河内野」が創刊されたのは、そんなブームの最中の昭和42年の秋であったのである。以来今日まで50年間多くの先輩俳人がこの河内野俳句会の中で、切磋琢磨し、育っていったのである。 

 

 彼らはお互いの俳句を刺激し合いながら「花鳥諷詠」を大きな指針とし、また主宰を中心とした「河内野」という俳句の大きな道を進んで行ったのである。それは入門する人の基本」を指導して、夫々の俳句向上を辿ったものであり、今日もまた今後もこの大道をお互いに守って行くもので、「有季定型」の枠のみを厳守し、「俳句に品格を」という以外は、あくまで己のの俳句を目指し、自分の得心のゆく俳句の大成に絶え間なく進んで欲しいと切望している。それが即ち「河内野俳句」なのではないだろうかと、考えるのである。      

 

河内野会長   山下美典